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シリーズ「海と運河がつむぐ7つの小樽の物語」インタビュー企画
小樽観光協会が毎年発行している公式小樽観光ガイドマップが、2024年度は4年ぶりの全面リニューアルとなり、「つむぐおたる」とタイトルも変更して、現在配布しております。
つむぐおたるについては、こちらをご覧ください
▷[公式]小樽観光ガイドブック2024「つむぐおたる」
この「つむぐおたる」では、「海と運河がつむぐ7つの小樽の物語」という切り口で、港の発展に伴い、運河が造られ、交易の拠点として栄えた小樽の物語を、7つに分けて掲載していますが、この物語について、「あの人に聞いてみた!」企画を連載します。
第三弾となる今号では、「鰊」について、余市町教育委員会の教育部長 浅野敏昭さんに、お話をうかがいました。浅野さんは、よいち水産博物館の館長でもあり、鰊漁の研究を続けてこられた学芸員。小樽のイベントでも講演をされていますので、浅野さんのお話を聞いたことがある方は多いのではないでしょうか?
※記事の内容は、配信時の情報に基づきます。 最新情報は、各施設へお問い合わせください。
「鰊」は肥料だったの?食べていたの?
(浅野)「鰊について」とのことですが、どんなことを知りたいですか?
(編集部)「鰊のことを知りたい」と伺っておきながら、歴史的なトピックの鰊のことをそもそもよくわかっていないので、よろしくお願いします!
(つむぐおたる 「鰊」紹介文)
「春告魚(はるつげうお)」とも呼ばれるニシンが3月から5月にかけ産卵のために大群でやってくると、海岸一帯の海が白く濁ります。これを「群来る」といい、この美しい青翠色の海が浜に春を知らせます。
かつて一年で最も活気にあふれていた小樽の春。
江戸時代中期から明治時代、北前船により北海道から大量に運ばれたニシン。中でもニシンを加工して作るニシン粕は、綿花や藍などの良質な肥料として西日本を中心に大量に消費されていました。当時の繊維業を支える上で欠かせなかったニシン粕は、日本の近代化を裏で支えた立役者と言えるかもしれません。
明治30年代にピークを迎え、まさに一大産業であったニシン漁。巨万の富を得たニシン漁の親方たちは、豪華な御殿や邸宅などを建設。東北や北陸から出稼ぎにきた漁夫など多くの労働者が寝泊まりした番屋では、煮炊きの匂いがあふれ、威勢のいい掛け声や歌が響き活気に溢れていました。また、北海道を代表する民謡の一つ、「ソーラン節」はニシン漁の鰊場作業唄の一節で沖揚げする時の「ソーラン、ソーラン」と声を掛け合った沖揚げ音頭がルーツといわれています。
(編集部)まずは、「鰊は食べていたのではなく肥料として使われていた」という説明に、最近疑問を感じたことがあります。先日、テレビ番組を見ていたら、北陸の金沢で鰊を使った郷土料理が紹介されていました。大根ずしという、身欠きニシンと大根を米と麹で漬けた発酵食品だそうで、北前船で鰊が運ばれてきて、手に入りやすかったので、金沢の日々の食卓の味として愛されてきたそうです。「え?そういえば、鰊は結局食べていたの?」とよくわからなくなりました。
(浅野)きっとその「鰊は肥料として使われていた」という説明の戦犯は、某社長と僕ですね(笑)
食べてもいましたよ。江戸時代から鰊漁はありましたが、この頃は食べ物として取引され、単価も高かった。けれど明治時代には、鰊粕、つまり肥料として扱われる。低単価な肥料が圧倒的な量で売れるわけです。でも勿論、身欠きもあったので、全く食べていなかったわけではない。
(編集部)おぉ、早速、ひとつ疑問が解決しました。
(浅野)確かに、鰊の食文化が残っていない?ように見えますよね、不思議なんですよ。聞き取り調査をしてきたけれど、どうも当時の鰊漁の人々にとって、鰊自体は食べたいものではなかったらしい。
(編集部)以前、漁師さんに取材に行った時に似たようなことをおっしゃってました。「食べたいとは思わない。商品だし」と(笑)
(浅野)鰊に関連する料理といえば、「三平汁」「数の子」「鰊漬け」「鰊蕎麦」などかな。以前当時を知る人に聞いた時は、「三平汁」は救荒食(きゅうこうしょく/食物が手に入らないときに利用されてきた料理)として食べられていたとか。「鰊蕎麦」も京都から逆に北海道にもたらされたものだし。食文化の話がなかなか残っていないですね。海に出て鰊を獲る出稼ぎの人と違い、浜の作業を担当する地元の人にとってはきつい作業だったから、鰊漁はつらいものだったのでしょう。原料生産地では、ありがたがらない傾向があるようです。
「鰊」はいつ来ていたの?
(浅野)ところで、昔の鰊は、今獲れている鰊と違うそうです。昔の鰊は、北海道・サハリン系という種類のもので、3月から4月に北海道で獲れていました。今獲れている鰊は、石狩湾系の鰊で、稚魚を放流して人の力で増やしてきたものです。
(編集部)それも疑問のひとつでした。今の小樽の鰊漁は1月から3月で、群来も2月や3月が多い。どうして春告魚なのに冬に来るのか?歴史に登場する鰊漁と時期が違うのはなぜ?と思っていました。
(浅野)そう、種類が違ったんですね。
(浅野)どうして鰊が来なくなってしまったか?鰊は脅威があると、頑張って子どもを増やそうとするけれど、脅威がなくなると現状維持に移行する。海流の変化で生息環境も変化していく。この頃を知る漁師さんは、当時の鰊は魚としてのつぶが大きいことに気が付いていた。浜の現場では「大きい鰊しかいないのはおかしいぞ」と思っていたそうです。そうしたら、本当に鰊が来なくなってしまった。昭和29年(1954年)の忍路と余市で見られたのが、最後の群来でした。

(浅野)ちなみに、昔の鰊は今の鰊と比べると、味も違うそうです(笑)
(編集部)え?どういうことですか?
(浅野)脂がとっても乗っていた。七輪で焼けないほど(笑)
(編集部)それはすごい!
(浅野)それと、昔の鰊は一瞬ピンク色に見える時期があったそうで、「桜鰊」とも呼ばれていたそうです。
(編集部)春っぽいですね、見てみたかった(笑)
(浅野)あと面白いなと思ったのがね、漁師さんから鰊をもらうことがあったのですが、その時に「まず神棚にあげろよ」と言われたこと。鯛とか鮭とかはイメージつきますけど、このあたりでは、鰊もそうなんですね。鰊が獲れたことを感謝して神棚にお供えするもの、縁起物なんでしょうね。

場所:祝津パノラマ展望台
漁場建築って色々ありますね?
(浅野)現在の小樽のまちにあって、かつての鰊漁を語る建物と言えば「銀鱗荘」「旧青山別邸」「小樽市鰊御殿」「茨木家中出張番屋」「白鳥家番屋」などがありますね。特に、祝津地区の建築群は、道内屈指のものと言えるでしょう。小樽の人は自慢してください(笑)
鰊御殿という風格で言えば、旧田中家の小樽市鰊御殿、小平町の旧花田家番屋などがあげられるでしょうね。
旧猪俣家邸
鰊漁を中心に財を成した猪俣安之丞の邸宅として、明治33(1900)年に余市町に建てられ、現在地には昭和13(1938)年に移築。多くの大規模な鰊漁家が親方の住居と漁夫の寝床を合わせている点と異なり、この母屋は猪俣家専用の住宅となっています。
現・料亭湯宿 銀鱗荘
宿泊施設として営業
・小樽市桜1-1
・公式サイト

旧青山家別邸
青山留吉は明治中期に活躍した後志有数のニシン漁家。旧青山家別邸は大正12(1923)年に完成。贅を尽くした邸宅建築は、鰊漁最盛期の繁栄を物語っています。
元番屋と蔵の一部は「北海道開拓の村」(札幌市)に移築保存されています。
現「にしん御殿 小樽 貴賓館 旧青山別邸」
・小樽市祝津3-63
・公式サイト

旧田中家番屋
明治30(1897)年に泊村に建てられた鰊漁場建築の主屋を移築したもの。建主の田中家は、後志でも有数の鰊漁の親方でした。移築の際に一部縮小されていますが、大規模な切妻造、煙出しを兼ねた天窓、漁夫用と親方用の2つの玄関を備えた外観など、典型的な鰊漁場建築の構成です。
現「小樽市鰊御殿 」
鰊漁にまつわる民具や写真などを展示する資料館として一般公開(冬季閉館)
・小樽市祝津3-228
・公式サイト

茨木家中出張番屋
祝津の網元である茨木家が明治期に漁夫の住宅として建てた物。同じ並びに邸宅もありますが、非公開ですのご注意ください。
茨木家中出張番屋
4月~10月の期間で一般公開(冬季閉館)
・小樽市祝津3-165
・公式サイト

旧白鳥家番屋
※現在建物内部は非公開です

旧近江家番屋
※現在建物内部は非公開です

(浅野)ところで、昔の鰊漁は、鰊を獲る漁業から食品加工業、肥料を作る軽工業、そして販売までをやっていたのです。
(編集部)そういえば、「旧余市福原漁場」にも干場がありますね。
(浅野)そうですね。それで、「番屋」っていうのは、こういう構造になっているところが多いです。

(浅野)ここで「番屋」という言葉を見てみましょう。辞書で調べると、こう書かれています。
ばん‐や【番屋】
1.番人の詰所(つめしょ)。
2.ニシン・サケ漁などの漁夫(ぎょふ)の泊まる小屋。
(浅野)番人とは治安維持や防犯などの任務にあたる人で、番屋は江戸時代の防災施設のことを指しています。鰊漁における番屋とは、住居であり、漁夫を収容する施設でもあった。別のもののように見えますが、これはつながっている話なんです。余市にも残されていますが、「運上家(うんじょうや)」というのがありますね。
(編集部)「旧下ヨイチ運上家」ですね、子どものころによく遊びに行っていました。
(浅野)運上家は、江戸時代、松前藩が行っていたアイヌ民族との交易を請け負った商人が経営の拠点とした建物で、場所請負人である商人によって建てられます。彼らは許可を得て交易を行い、税金を納めるのですが、この商人たちが密貿易をしないように監視をする役目を担っていたのが「番屋」でした。
(編集部)元々はそこから「番屋」が始まっているんですね。
(浅野)そして明治半ばになると、「追鰊(おいにしん)」という鰊の出稼ぎが増えてきます。鰊漁で成功した人たちは、稼ぐためには人手が必要なので、漁夫を収容できる大きな建物を建て始める。これが「番屋」として機能していきます。
(編集部)番屋と呼ばれる建物も見た目は似ていますが、色々ありそうですね。
(浅野)近江さんの番屋は平屋ですが、田中さんの番屋は2階建てですね。使用されている木材の量も随分違う。北海道でいうと、増毛方面は平屋が多く、泊や留萌は壁が立っているものが多いですね。
(浅野)ところで、「番屋」という言葉は、鰊漁から始まっていますが、実は漁師さんは今も「番屋」という名前で作業場のような倉庫のような場所を指して使っているんですよ。
(編集部)おもしろいですね、「番屋」という言葉が脈々とつながっているのですね。
旧余市福原漁場
余市町浜中町に幕末から定住し、ニシン漁を行っていた福原家が所有していた建物群。広い敷地に、主屋、文書庫、米味噌倉、網倉、便所、物置小屋等のほか、ニシン粕等の干場も残されており、ニシン漁でにぎわった時代の漁業経営を知ることができます。
・余市町浜中町150
・公式サイト
・冬季閉館

旧下ヨイチ運上家
北海道内に唯一存在する運上家です。和人による蝦夷地経営の拠点としてアイヌとの貿易と撫育を行う施設として設けられた建造物です。国指定文化財。
・余市町入舟町10
・公式サイト
・冬季閉館

小樽じゃない話も教えてください
(編集部)ついつい小樽を主語にしてしまうのですが、鰊は小樽だけで獲れていたわけではないわけで、「小樽は鰊漁で栄えた」というよりも「小樽も」なのかなと思うのですが、実際、かつての鰊漁って、どんな感じだったのでしょうか?
(浅野)江戸時代の終わりころから北海道の西側、日本海側で鰊が獲れ始めます。しかし、大正時代の頃から江差の方では獲れなくなってきます。積丹の向こう側もそうですね。昔は津軽海峡も超えて南側でも獲れたけれど。昭和20年から30年にかけて、鰊漁は道北に移っていきます。
(編集部)「江差の春は江戸にもない」と歌われるほどだったそうですね。
先日取材で、塩谷の徳源寺と明治宮鹽谷神社に行ってきましたが、古い船絵馬が残っていました。昔は、小樽も西側が鰊漁で栄えていたのでしょうか?
(浅野)忍路は特に地理的な利点が大きかったのでは。群来になると海が時化ることが多いので、命を落とす人もいたが、忍路の港は地形的に逃げやすかったのでしょう。

(編集部)後志エリアで、ほかに鰊漁の足跡をたどれる場所はありますか?
(浅野)泊村にもありますね。田中家は小樽に移築されましたが、旧川村家番屋と旧武井邸客殿が、移築復元されたものが、「鰊御殿とまり」として見学できるようになっています。
鰊御殿とまり(公式サイト)
泊村の鰊漁が始められたのは今から約300年前。鰊漁が全盛期を迎える明治時代には、50を超える鰊番屋が建ち並びました。明治27年(1884)に親方の川村慶次郎氏によって建てられた『旧川村家番屋』と、大正5年(1916)頃に武井忠吉氏によって建設された『旧武井邸客殿』が移築、復元されたものです。どちらも鰊漁が盛んだった当時の姿をいきいきと再現しています。
(浅野)それから、積丹町美国にある「鰊伝習館ヤマシメ番屋」もおすすめです。積丹も、明治から昭和期にかけて北海道有数のニシン場として栄えましたが、ここは明治末期に建設された邸宅を利用したカフェになっています。
鰊伝習館ヤマシメ番屋(Instagram)
築約110年の歴史をもつ建物。歴史資料館であり、カフェとしても営業。おにぎりセットや三平汁なども提供。イベントも開催しているので、詳しくはInstagramをチェック。
(浅野)あっ!あと、余市で、鰊ラーメンを提供するお店がオープンしていますので、ぜひお出かけください!
Nouilles Japonaise(Instagram)
「鰊らぁ麺」を提供。余市駅前の宿泊施設「LOOP」に2025年1月にオープンした新店。営業時間・定休日不定期なので、Instagramでチェック

小樽通 編集部 永岡朋子
小樽運河と小樽港の間にある小さな事務所で、小樽観光を支えてくれる皆さんと日々奮闘中。Webマガジン小樽通では、記事制作も担当します。小樽の風景を撮るのが好きだったけれど、最近全く活動できていないので、なんとか活動再開したい!