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シリーズ「海と運河がつむぐ7つの小樽の物語」インタビュー企画
小樽観光協会が毎年発行している公式小樽観光ガイドマップが、2024年度は4年ぶりの全面リニューアルとなり、「つむぐおたる」とタイトルも変更して、現在配布しております。
つむぐおたるについては、こちらをご覧ください
▷[公式]小樽観光ガイドブック2024「つむぐおたる」
この「つむぐおたる」では、「海と運河がつむぐ7つの小樽の物語」という切り口で、港の発展に伴い、運河が造られ、交易の拠点として栄えた小樽の物語を、7つに分けて掲載していますが、この物語について、「あの人に聞いてみた!」企画を連載します。
今回は、「小樽運河」について、小樽市総合博物館 館長の石川直章さんに、お話を伺いました。
「小樽運河」の歴史を教えてください
(編集部)「小樽運河」には、国内外から多くの観光客が訪れています。写真撮影や散策を楽しんだり、運河クルーズも人気です。観光パンフレット「つむぐおたる」の表紙も、小樽運河となっており、小樽運河は小樽の顔とも言えます。でも、観光のために作られたわけではないわけで、館長に改めて、小樽運河の歴史を聞いてみたいと思います!
①運河ってなあに??
石川館長)まずは、「運河」とは何かを確認しましょう。広辞苑で調べると、"水利・灌漑・排水・給水、船舶の航行などのために、陸地を掘り割って通じる水路"となりますが、小樽運河は、掘ってないし、船の航行にも使ってないので、実は定義からは外れちゃうんです。これが、小樽運河の面白いところですが、この話はまたあとで。
②背景を知ろう!発展する小樽港
石川館長)小樽港は、明治に入ってからすごく賑わうのです。 小樽港は高島岬が出ているので、北風を防げる有利な点があり、江戸時代から北日本随一の港と言われていたけれど、石炭輸送と鉄道により、近代港として発展します。
明治37年の帆船の入港数は、函館と小樽が突出しています。汽船になると室蘭も増えますが、これは石炭輸送によるもの。函館と小樽は、商港としての歴史があるので、帆船も多い。
鉄道が敷かれるとモノが集まってくるので、倉庫が必要になるのですが、小樽は坂のまち。平らな場所がないので、埋め立てをして、倉庫を建てていきます。現在の堺町通りのあたりも海でしたが、埋め立てをしていきます。そうして倉庫が建てられていき、船が着きやすいように、 舟入澗ができて、岸壁が整備されていきます。
小樽港を目指してやってくる船はどんどん増えていきます。そこで、艀(はしけ)と呼ばれる小型の船が活躍します。荷物を運ぶために作られ、大きい船と倉庫を何度も往復していました。次第に、この艀(はしけ)も増えていくのですが、小樽港の大混雑を解消するために、当時2つの方法が検討されました。
③ふ頭か?運河か?
(石川館長)ひとつは、ふ頭方式。今の石山町のあたり、現在の田中酒造本店のところからふ頭を作ろうという計画でしたが、一度、認可されるものの見直されます。広井勇博士が「ふ頭方式は時期尚早」と言ったのですが、これはなぜかというと?
大正4年ごろの数字ですが、年間で6,200隻の船がやってくる、その荷を処理する艀の数は約600艘、働く人の数は約1,300人と、艀荷役を前提とした港町になっていた。これを解消するには、かなり大掛かりな工事になることと、社会構造そのものを変えることになるから。
もう一つは、当時は大型船ばかりではなく、帆船も動いていた時代で、小型の船も多かったので、ふ頭方式がそれほどメリットを生み出さないだろうと考えられていたからです。
そこで、艀荷役を活かす方法として、運河方式が取り入れられました。
④4区に分けられて進んだ運河工事
石川館長)当時の小樽は北日本随一の港だった時代なので、その機能を止めるわけにはいかない。機能を生かしながら、整備をしなければならないので、4つの工期に分けて進められました。
2区は現在の北海製罐工場のあたり。3区には「中央橋」、4区には「浅草橋」、3区と4区の間には「月見橋」という記載が見えるので、探してみてください。
※月見橋はのちに現在の場所に移転します
(石川館長)昨年、小樽では運河完成100年ということで、様々な企画が実施されましたが、実は1923年から使われたのではなく、最初に工事が進んだ1区については、1917年に完成し、実際に使われていきます。2区は、埋め立てが完成したあとに、開道五十年記念北海道博覧会(1918年)の小樽会場としても使われ、終わってから倉庫が建てられ始めました。12月27日に小樽運河完成と言われていますが、それは、3区の工事完了の日で、4区はそれより先の7月頃に完了していたそうです。
この画像の面白いのは、実現しなかった計画も載っているところ。艀とふ頭の折衷案や石炭を置く場所を確保するための手宮側の埋立計画(赤の塗りつぶし)などもありました。現在のメルヘン交差点のあたりの埋立もこの頃に行われています。それまでは船着き場、つまり、現在のルタオ本店やオルゴール堂本館のあたりも海岸線でした。
⑤完成後の小樽運河
(石川館長)完成後の3区と4区の写真が、こちらです。この角度、この高さからの写真ということは、北海製罐第三倉庫から撮られているので、建物が出来たあと、約100年前の写真ということになります。
多くの艀が係留され、運河で荷役作業をしている写真も残されています。
運河工事にかかった費用は、当時のお金で1,906,066円。大工さんの給料で比較するとおよそ80億円と言われてます。ちなみに、北広島にできたボールパークは600億円ですので、かなり安上がりだったと言えるでしょう。
①-2 "小樽運河は運河じゃない?"の続きのハナシ
(石川館長)冒頭の"運河じゃない"という話に戻りますが、実は、小樽には既に「銭函運河」という運河がありました。明治30年に札樽間での運搬のために作られ、銭函から石狩の花畔(ばんなぐろ)というところにつながっていました。長さは約14,500m、幅は約4.5mと、幅約1.5mの小舟と小舟がすれ違うことができるぐらいの水路でした。
運河方式というのは、当時の人々にとって、もしかしたらこの銭函運河のイメージがあったのかもしれません。ちなみに、今も銭函運河の痕跡は残っており、「銭函運河線」という道路看板もあります。
⑥使われなくなっていく小樽運河
(石川館長)使われなくなっていく理由は、戦後樺太を失ったから、石炭を使わなくなったから、など言われていますが、実際はどうでしょうか。
日本が樺太を失ったのは1945年ですが、戦争が始まるちょっと前の統計で、小樽港が樺太関係の荷を取り扱っていたのは5%以下と言われており、大きくダメージを受けたとは言い難いようです。
逆に、戦後の小樽港は、復興のために本州に食糧と石炭を送ることから、活況を呈していた。それに目を付けた住友銀行が新たにやってきたぐらい。
石炭については、日本全体では石油にとって替わられていくけれども、北海道はスクラップ&ビルドのビルドの方でした。九州や本州の炭鉱をつぶし、北海道に機械と人を集中させ、どんどん増産していくのです。北海道全体の石炭算出のピークは昭和40年代で、手宮の記録ではピークは昭和39年。決して不況ではなかった。
※このことは、映画「フラガール」でも描かれていますので、見てみてくださいね↑
しかしその後、石炭の扱いは、すとんと落ちます。昭和30年代半ばには、住友が撤退。北海道経済の中心が札幌に移っていったこと、そして苫小牧が開港したことが影響します。右肩上がりの苫小牧と比べ、小樽港は停滞。艀荷役は少なくなっていたとはいえ、小樽港自体は元気だったのだけれど、そもそも船がやってこなくなるということの影響は大きかったのではないでしょうか。
⑦運河保存運動へ
(石川館長)使われなくなっていく運河は、悪臭を放つ場所になっていましたが、ちょうど世の中は自動車が主流の時代、交通渋滞の解消ということで、運河を埋め立てて道路にしようという計画が出てきます。実際、交通状況はひどく危なかったので、ナップランドはこの時に登場、通学する子どもたちのためにランドセルよりも軽い鞄をということで、作られたそうです。
高速道路(札樽道)の工事が始まり、有幌地区の倉庫群は壊され始めていたところ、危機感を持った一部の市民が立ち上がり、運河保存運動へと話が続いていきます。
〇運河保存運動
小樽港が衰退し、自動車の時代となると、昭和41年に運河を埋め立てて道道臨港線を建設する都市計画が決定した。実際に工事が始まり、有幌地区の倉庫群の取り壊しが進んでいくと、危機感を持った経営者・歴史研究者の越崎宗一氏、商業デザイナーの藤森茂男氏らはじめとする市民が立ち上がり、昭和48年12月4日、越崎氏を会長として「小樽運河を守る会」発起人会が結成された。運河埋め立てを推進する経済界からの圧力等により、両氏が運動から退場し、低調となったが、昭和53年、峯山冨美氏が小樽運河を守る会の2代目会長に選出されると、若い世代の参加もあり、市民の間に運動が広がっていった。同年7月には第1回ポート・フェスティバルが開催された。十数年に及ぶ論争の末、昭和61年、運河の一部が埋め立てられ、龍宮橋から北側が半分の20m幅となり、散策路等が整備され、現在の姿に生まれ変わった。
(Otaru Next 100 実行委員会 公式サイトより)
⑧小樽運河の残したもの
(石川館長)まずひとつは、物流のまちを支えたこと。でも主役だった時期は長くない。工事の終了が大正12年でしたが、昭和8年に小樽市はふ頭建設にふみ切るまでが約10年、つまり、大正の終わりから戦前にかけてがピークでした。
小樽の黄金期を象徴する施設であり、運河の両側には明治と大正という繁栄期の建物群が両側に建ち、歴史が集積している場所でもあった。
もうひとつは、今の小樽を考える際に、この運河を残す残さないということがきっかけになっているということ。
北一硝子が堺町通りで成功をおさめたことは大きなことでしたし、論争を経て、小樽市は歴史的建造物を残す制度を作り、守るものを守っていくということを明確にした姿勢は大きなこと。理想だけでは食べていけない一方で、それまで負債だった建物が資産となる活用例を示したことで、建物を活用する人、商売をする人が増えていった。これが、今の小樽につながっているのです。
小樽の楽しみ方をおしえてください!
(編集部)館長、ありがとうございました。それでは、石川館長がおすすめする小樽運河の楽しみ方を教えてください。
(石川館長)やっぱり北運河ですよね。 朝早くに、北運河を散歩していただきたい。そうすると、昔こうだったのかなっていう雰囲気がわかります。船は動いてますからね。はい、やっぱり北運河。北運河を朝早く散歩してみてください。
あとは冬。埋もれてるからね。僕、本州生まれなので、雪はすごく、やっぱり魅力的なんですよ。最初に見た運河も1977年の冬なので。冬のとっても寂しい、埋もれてるのがあえていいんですね。
(編集部)では最後に、小樽市総合博物館を旅行で楽しむ方法を教えてください。
(石川館長)入門編として、博物館運河館を見に来ていただければと思ってます。博物館の中でいくつか資料を出してますけども、それをぱーっと見ていただいて、「あ、このまちはこういう特色があるんだ」と思ってからまちに出ると、同じ運河でも銀行街でも、見え方が変わってくるかなと思います。
それが終わったら、手宮線を歩いてください。そうすると、博物館本館に行けますので、今度は鉄道のことを楽しんでいただいて(笑)
ということで、小樽市総合博物館 石川館長にたっぷりとお話を伺いました。お話の内容は濃厚なのですが、このインタビュー時間は、なんとたったの45分!この記事に載っていない雑談も含めてです。淀みなくすらすらと語ってくださいました。石川館長、ありがとうございました!
※小樽市総合博物館のアクセス情報はこちらからご確認ください。
▷小樽市総合博物館 本館
小樽市手宮1丁目3番6号
電話0134-33-2523
▷小樽市総合博物館 運河館
小樽市色内2丁目1番20号
電話0134-22-1258