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小樽の2月と言えば小樽雪あかりの路。
月刊小樽自身2月号では、このイベントの由来になっている詩集の著者伊藤整を紹介するため、フリーライターとして活動し、伊藤整を題材にした小説を同人誌で発表した事もある盛合将矢さんにお願いしました!
初めに
小樽に本格的な冬がやって来て、新年を迎えて成人式が終わると「そろそろですね」と、積雪を心配する声がちらほらと聞こえてきます。小樽が世界に自慢できる冬のイベントが、まもなく始まります。
「小樽雪あかりの路」の由来は一冊の詩集から
国土交通省が主催した「手づくり郷土賞」において、大賞部門でグランプリを受賞し、いまや日本の冬を代表するイベントとも言える「小樽雪あかりの路」。イベントコンセプトなどは実行委員会によって練られていますが、名前の由来は小樽出身の伊藤整が出版した詩集のタイトルから付けられています。
伊藤整は14歳の頃に1冊の詩集と出会い、大変な衝撃を受け、やがて自分も詩人になる夢を持ち始めました。進学して就職し、社会人1年目の年に詩集を出すことを決意。「凍りついてほの明るい雪の夜道の感じを生かそう」として、題名を「雪明りの路」と名づけ、116の詩を綴った詩集300部を自費で出版しました。
伊藤整と小樽
伊藤整は松前郡で生まれ、1歳の頃に塩谷に引っ越しました。旧制小樽中学(現・小樽潮陵高等学校)を経て、小樽運河の完成と同じ大正11年に小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に入学。小樽中学の3学年だったころに余市小樽間の列車が運行を始め、伊藤整も塩谷駅から小樽中央駅まで列車で通学していました。
その車内で出会った鈴木重道という人物から1冊の詩集を紹介され、伊藤整はその衝撃を“私を恍惚とさせ、私自身の生命をはじめて見出したと感じさせるような魅力があった”と回想しています。
それからは詩の世界に夢中になりますが、小樽高商の卒業が近づくと、東京の銀行への就職話があっても体調の悪かった父の元を離れる事が出来ず、やむなく小樽市中学校(現・長橋中学校)の教師として働き始めました。
余談ですが、海運王と呼ばれていた板谷宮吉による敷地1万坪と多額の寄付によって小樽市中学校が建設され、当時は北海道で唯一の市立中学校でした。
学校では英語教師として働きますが、夢を諦めきれず、書き溜めていた300余りの詩から厳選して詩集を出すことを決意。同僚の当直勤務を進んで引き受け、その時間を詩の制作にあてるなどして、仕事と制作を両立させました。そして、出版された詩集は関係者の目にとまり、好評を得たのでした。
23歳になった伊藤整は3年間勤めた中学教師を辞職し、東京へと旅立ちます。東京では東京商科大学(現・一橋大学)で学びながら、本格的な創作活動に励んでいきました。
紹介したい内容はまだ沢山ありますが少し早送りして、当時のベストセラーランキングにいくつも作品がランクインするなど大活躍。1970年のノーベル文学賞では、伊藤整が候補になっていたことが選考主体の公式資料として最近になって開示されました。
ちなみに「いとう せい」と読まれる事も多いですが、本名は「いとう ひとし」と発音します。
雪あかりの人、これは過小評価過ぎ!?
「伊藤整って雪明りの路の人だよね」と聞くたびに、もったいないと感じてしまいます。例えばですが、スタジオジブリの初作品『天空の城ラピュタ』 だけでジブリの魅力を語り合うのは無理がありますよね!
『もののけ姫』 や 『風立ちぬ』 など、幅広いテーマ性や時代背景があり、個性的で魅力的な映画が沢山あります。伊藤整も、初作品である詩集「雪明りの路」以外の作品について、小樽で語られると良いと思っています。
自伝的小説とも言われている「若い詩人の肖像」を読めば、塩谷から通学する列車での甘酸っぱい青春や、夕方の海岸で彼女と待ち合わせる心の動き、公園通りに仲間と夜店を開いて石鹸や薔薇を売る様子など、100年前の小樽の情景が浮かんできます。どこまでが実体験でどこからが創作なのか、その曖昧性も小説の面白さです。
伊藤整について詳しく知りたくなったら、市立小樽文学館に行けばいつでも資料を見ることができます。また、書斎を再現した部屋、通学中の車窓からの景色を楽しめる仕掛けが心を擽られます。
詩の楽しみ方
詩集「雪明りの路」には116篇の詩が綴られており、その中の「雪夜」という作品が、雪あかりのモチーフになっています。詩の楽しみ方についてもここでご紹介します。
あゝ 雪のあらしだ。
家々はその中に盲目になり 身を伏せて
埋もれてゐる。
この恐ろしい夜でも
そつと窓の雪を叩いて外を覗いてごらん。
あの吹雪が
木々に唸つて 狂つて
一しきり去つた後を
気づかれない様に覗いてごらん。
雪明りだよ。
案外に明るくて
もう道なんか無くなつてゐるが
しづかな青い雪明りだよ。
(伊藤整『雪明りの路』より「雪夜」)
この詩を何度か音読した後に目を瞑って想像してみてください。
あなたが見た視点は、家の1階から外を覗いたものでしょうか、2階からでしょうか。同じ部屋に兄弟姉妹はいたでしょうか。家族の誰にも、嵐にさえ気が付かれないようにそっと窓に近づいて、ひょっこり顔を覗いたのでしょうか。この時間帯は、深夜なのか明け方に近いのか、この時代の塩谷に街灯は灯っていたのだろうか、だとしたら白熱電球なのか、少しオレンジ掛かった暖色なのか。嵐に対して必要以上に恐怖を抱いていると感じるのは何故か、一人称で語っているのではなく、神の視点で書いているのか…。
これに正解は無く、例えばレオナルド・ダ・ヴィンチが描いたモナ・リザが笑っているのか悲しんでいるのか、研究者の解説なんかどうでもよくて、今の自分がどう感じるかが大事だと思うのです。周りの意見なんか無視して伊藤整が見た景色を想像すると、自分だけの世界に没入できます。
また、「しづかな青い雪明り」という言葉が出てきますが、どこにブルーを見つけたのでしょうか。「確かに!」と記憶の引き出しから直ぐに見つけられる人もいれば、「昨日見た!」と、雪の降らない地域から来た観光客が発見しているかもしれません。
見たことがなくても興味を持てば、これから冬の夜道を歩くとき、白と黒の世界から青を見つけようとするアンテナが立つはずです。一つの詩と、自分の記憶や体験、好奇心がリンクする、やっぱり詩の世界は面白いですよね。
歴史を語る文学碑
小樽の海を一望できるゴロダの丘が塩谷にあり、そこに伊藤整の文学碑があります。
「伊藤整文学碑」という文字の横に書・北見恂吉と書かれていますが、これは歌人としての名前で、本名は鈴木重道。伊藤整の人生を変えた1冊の詩集を紹介した人物です。
文学碑の建立について伊藤整は頑なに拒否していましたが、死の直前になって、同級生たちの説得により承諾したのだそうです。碑には詩「海の捨児」の冒頭二編が刻まれており、こちらは伊藤自身の筆で書かれたものが彫られています。
文学が文化になったまち
小樽雪あかりの路は、9日間で57万人を超える来場者を記録したこともある大規模なイベントです。世界中の人を魅了し、小樽の文化になったイベントの原点にあるのは、諦めきれなかった夢に挑む1人の青年が世に送り出した、1冊の詩集でした。小樽は、文学が文化になったまちなのです。
(フリーライター 盛合将矢)