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【月刊小樽自身2024年3月号】新一万円札の顔「渋沢栄一」が感動した小樽-その繋がりを紐解く

2024.02.25

※記事の内容は、配信時の情報に基づきます。 最新情報は、各施設へお問い合わせください。


新紙幣の発行に併せて、NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公としても描かれた渋沢栄一と小樽のつながりをご紹介します!



初めに

いよいよ2024年7月3日から新紙幣の発行が始まりますね!
ちなみに、紙幣のデザインが一新する!と発表されたのは、何年前だったか覚えていますか?当時は日本各地が湧きました!

今回の記事では、新1万円札の顔となる渋沢栄一の人物像、小樽との繋がり、そして日本銀行旧小樽支店についてご紹介します。

日本銀行旧小樽支店金融資料館では、渋沢栄一の新紙幣も見られる特別展が開催されています。

新紙幣の発表

2019年4月9日の会見で当時の麻生太郎財務相が「これまでおおむね20年ごとに改刷してきた」と、新紙幣の発表をして、新しい顔は明治以降の文化人から選んだと説明しました。

千円札と5千円札は20年前に野口英世と樋口一葉に変更されましたが、1万円札は福沢諭吉のままでしたので、1万円札は1984年に聖徳太子から福沢諭吉に変更されて以来、40年ぶりの刷新となります。

渋沢栄一ってどんな人?

渋沢は、500社以上の企業設立に携わり、「日本資本主義の父」と呼ばれた実業家です。幕末に尊王攘夷運動に参加した後、明治政府で官僚として活躍しました。その後、民間人として日本で初めて銀行を設立し、多くの企業の創設・育成に尽力しました。

経済活動だけでなく、教育、医療、福祉など様々な分野で社会貢献にも力を注ぎ、日本の近代化に多大な貢献をした人物です。

渋沢が新1万円札の顔になると決まったとき、全国各地で盛り上がったのを覚えていますか?

「この町で教育会会長を務めていた」「ここで製糸場を作った」「この地域の酪農産業にも関与した」「学校の校門に学校名を書いてもらった」などなど、各地で繋がりをストーリーにしたまちおこしが盛んになりました。
大河ドラマ「青天を衝け」では主人公としても描かれ、その存在や功績は、より多くの人に知られるようになりました。

もちろん小樽にも渋沢との繋がりがあります。しかしその関わりは、他とは違う特別なものがあると思っています。

渋沢栄一の写真
(小樽市総合博物館 所蔵)



渋沢との繋がり、その前に小樽の話

北海道で初めて鉄道が敷かれ、港も持っていた小樽は、北海道発展の要となっていました。道内各地から鉄道で荷物が集まり、船で道外に運ばれました。また、本州や海外から来た船は小樽を目指し荷物を降ろし、鉄道を使って道内各地に届けられました。

木材や石炭などは屋外に置けましたが、玄米や大豆などの食品は倉庫内に保管する必要がありました。こうして、物流拠点となった小樽ではヒト、モノ、カネが大きく動き、「銀行業」と「倉庫業」が急速に発展していきます。

ちなみに、小樽を経由して大量の物資などが行き来する様子を見たある作家は、その物流を血液に見立て、「北海道の心臓」と比喩しています。北海道の発展を支える重要な存在を小樽が担っていたことを、シンプルに伝える言葉ですよね!

小樽史概略
1880年 北海道初の鉄道が仮開通(手宮-札幌間)
1889年 小樽港が特別輸出港に指定
1893年 日本銀行小樽派出所の開設
1893年 小樽倉庫株式会社が北海道で初めての営業倉庫の認可
1897年 小樽築港第一期修築工事(北防波堤)着工
1912年 第一銀行の支店が小樽に誕生
1915年 澁澤倉庫出張所が誕生

運河完成前の港の活気(明治)
(小樽市総合博物館 所蔵)



渋沢の特別な足跡

約500もの会社設立に関わったと言われる渋沢栄一。そのなかで、自身の名が付けられた珍しい会社として澁澤倉庫株式会社があります。東京での会社設立から6年後、初めて出張所を作る場所として選んだのが小樽でした。

ある文献によると、当時の小樽には10数社の倉庫業者が存在し、競争が激化していました。やがて業界の荷役形態が乱雑を極め、弊害が続出していたので、第一銀行小樽支店以下地元銀行団の懇願により、(また、「損得を度外視して小樽業界に倉庫営業の模範を示せ」という渋沢栄一の意向に従って)澁澤倉庫として初の地方進出地に小樽が選ばれた、と書かれています。

当時の小樽支店とされている写真
(澁澤倉庫株式会社 所蔵)

小樽運河沿いの澁澤倉庫(現在)
倉庫外壁の「おびりゅうご」の印が特徴的です

さらに、澁澤倉庫が小樽に進出する3年前には、日本初の銀行である第一銀行の支店が小樽にも誕生しました。現存する旧第一銀行小樽支店の建物は1924年に建てられた美しい建物で、かつての繁栄と日本最古の歴史を持つ銀行としての風格を、現代の小樽に繋ぎとめています。



観光都市

小樽運河沿いにある屋根が平らな倉庫、ライブハウスやカフェとして利活用されている倉庫、小樽の銀行街を象徴する旧第一銀行。これらの建物は、「渋沢とつながりがあるから」という理由を抜きにしても、すでに多くの人によってフォトスポットになっています。

当時の第一銀行小樽支店(大正7年以降)
(小樽市総合博物館 所蔵)

現在の旧第一銀行小樽支店
小樽市HPより)



渋沢栄一が見た小樽

渋沢の日記には、1908年8月に小樽の開陽亭を訪れ「眺望開濶ナリ、夜色尤モ佳絶ナリキ」と、68歳の渋沢は小樽港を見た感想を残しています。
世界や日本各地、様々な場所を見てきた資本主義の父が、小樽の風景を見て「眺めが良く、夜色(夜景)も本当に素晴らしい」と感動しました。

翌日は小樽港や防波堤の視察をして、演説の中で「日本の一大商港といっても恥ずかしくない」と語っています

北海道の心臓の鼓動は、渋沢栄一の耳にも聞こえたかもしれません。澁澤倉庫の地方初進出に小樽を選んだ理由。渋沢が小樽に見た可能性とその価値を、市民はもっと自慢しても良さそうです!

小樽の港(明治36年)
(小樽市総合博物館 所蔵)



日本銀行に選ばれたまち

こぼれ話になりますが、小樽に日本銀行の支店があったことも凄いことなんです。
日本銀行は日本の中央銀行として、金融のバランスをとる重要な存在です。日本銀行は明治26年に、道内で3つ(札幌・函館・根室)の出張所と小樽を含む16の派出所を開設しました。その2年後に函館出張所は「北海道支店」と格上げになり、北海道経済の中心が函館にあったことを示しています。

そして、明治30年に小樽派出所は小樽出張所に昇格、更に明治39年になると「北海道支店」は一時的に函館出張所という名称に戻り、小樽出張所が「日本銀行小樽支店」に昇格しました。これは、函館と小樽の経済力が逆転した事を感じさせます。

日本銀行本店(東京)、大阪支店に次いで3番目に多い建設費が小樽支店に投入され、3年かけて新店舗が完成しました。日本銀行小樽支店の設計を指導して監修をしたのは、日本銀行本店や東京駅も手がけた辰野金吾で、日本近代建築の父とも評される人物です。

銀行の機能は失っていますが、建物の内装や外装はそのまま残され、金融資料館として開館しています。壮麗な外観と、精巧な装飾を是非ご覧ください!

日本銀行旧小樽支店 金融資料館

日本銀行旧小樽支店金融資料館では、2024年1月12日(金)から9月24日(火)まで、特別展「新しい日本銀行券2024 匠の技とデザイン」が開催されています。偽造を防ぐすっごい技術を、なんと入館無料で見る事が出来ますよ!

特別展の様子

日本銀行旧小樽支店金融資料館
小樽市色内1-11-16
入館料:無料
休館日:水曜日(水曜が祝休日の場合は開館)、展示入れ替え等のため臨時休館の場合有
ホームページ

参考文献
「小樽市史 第三巻」小樽市
「渋沢栄一伝記資料」澁澤倉庫HP
「渋沢倉庫の80年」渋沢倉庫株式会社社史編集委員会
日本銀行旧小樽支店金融資料館webサイト

(ライター:盛合将矢)

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