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シリーズ「海と運河がつむぐ7つの小樽の物語」インタビュー企画
小樽観光協会が毎年発行している公式小樽観光ガイドマップが、2024年度は4年ぶりの全面リニューアルとなり、「つむぐおたる」とタイトルも変更して、現在配布しております。
つむぐおたるについては、こちらをご覧ください
▷[公式]小樽観光ガイドブック2024「つむぐおたる」
この「つむぐおたる」では、「海と運河がつむぐ7つの小樽の物語」という切り口で、港の発展に伴い、運河が造られ、交易の拠点として栄えた小樽の物語を、7つに分けて掲載していますが、この物語について、「あの人に聞いてみた!」企画を連載します。
第二弾となる今号では、「北前船」をテーマに、東京理科大・教養教育研究院の菅原慶郎さんと、北前船とともに歩んだ小樽の物語をコンセプトに展開する小樽百貨UNGA↑の白鳥陽子さんのお二人の対談をお届けします。菅原さんは、前職で小樽市総合博物館の学芸員を務められ、北前船の研究を続けてこられた専門家でもあります。
「北前船」について教えてください
商品を売買しながら日本海を航行
江戸時代の中ごろから明治30年代にかけて、大量の荷物を積んで日本海を往来していた多くの船がありました。北前船と呼ばれる船です。「北前船とは何か」という定義には、研究者によってこまかい違いがありますが、共通項でくくってみると①大阪と北海道(江戸時代の地名では大坂と蝦夷地)を日本海回りで往復していた、②寄港地で積荷を売り、新たな仕入れもした、③帆船 ――と言えるようです。
(※日本遺産 北前船 公式サイトより)
(編集部)研究者によって解釈も違うようですが、「北前船」とはどんな船でしょうか?
(菅原)北海道、もう少し幅広い概念で捉えて千島列島やサハリン島も含めて、日本の本州方面から見れば北方地域と本州、特に大阪から日本海側の辺りの、ものと人、そして文化を繋いだ船で、北方が日本に組み込まれていく過程の中で、非常に重要な役割を果たした船です。その一例が、昆布。おせち料理で、日本全国どこでも食べるものになった話が象徴的ですね。
(編集部)現代とはまったく違う、昔の船でよく航海をしていたと思うのですが、実際にどんな船だったのでしょうか?
(菅原)日本の伝統技術で作られた日本型帆船(弁財船)と言われる船が多いですね。通称で千石船(せんごくぶね)ともいわれ、米を1000石詰める大きさという意味でしたが、実は、500石から2000石以上の船もありました。この船は、こぎ手がいなくても帆走できるので、多くは10人ぐらいでまにあったようですね。
(編集部)そんなに少ない人数で、心細い(笑)
(菅原)船に乗っている時間だけだと、北海道と本州で数週間ぐらいでしょうか?ただ、立ち寄る港で商売をしていくので、実際には数カ月かかっていますね。当然、波が高かったら船は出れませんので、いわゆる風待ちと言いますけど、そういう港で何週間も滞在というのもありますよね。
(編集部)荒波を超えた男たちのとか、日本遺産でうたってますが・・・
(菅原)天候によっては、荒波のときもあると思いますよ。小樽へも日本型帆船で行き来していた近江商人の西川家の文書が残っていますが、12月に航海している記録もあります。積丹まで行って、とんでもない風にあおられて、最後は石狩の浜に打ち上げられた。できるだけ、荒波にあわないようにしてるはずですけどね。
(編集部)白鳥さんは、北前船にどんなイメージをもっていますか?
(白鳥)工楽松右衛門(くらくまつえもん)は、本を読むと漢気ある人物として描かれてますよね(笑)工楽さんの帆ができたことで、動力が変わったことはすごいことだなと思うし、以前は、ひと航海で帆がボロボロになって弱かったらしいけど、帆と帆の隙間の作り具合など巧みに作られてるんですよね?
(菅原)風を受けて動く船なので、ボロボロになりますね。あえて隙間をつくって風を逃がして、安定させるバランスとかありますし、帆の木綿の大きさと丈夫さもポイントだったようです。
▽参考「菜の花の沖」著:司馬遼太郎
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167105860
江戸後期、ロシアと日本の間で数奇な運命を辿った北海の快男児・高田屋嘉兵衛を描いた名作
「北前船」ってビジネスの話ですね
(編集部)北前船って、船の種類というよりは、事業スタイルのことを言うのだと思いますが、この点について教えていただけますか?
(菅原)物の値段の価格差での儲けがすごく多かった、そういう意味では商船ですね。当時は、まだ価格差が地域によって相当あった。これをうまく捉えて、商売に生かしていたことは、大きな特徴ですね。
(白鳥)うちは北前船の寄港地の商品を扱う関係で、最近は竹鶴政孝さんの生家でもある竹鶴酒造からお酒を仕入れたけど、竹原という場所が元々塩を作ってる場所だったりするわけで。船が運んでくれるおかげで、商売になるから、各地で産業が盛んになったっていうのはすごく感じますね。酒、塩も、ニシンが肥料になった藍も、色々なものがつながっている。歴史的な人物として、商人はなかなか登場しないけれど、今で言う経済界の人たちが船を持って商売して、それで各地の産業がつながっていったことが、勉強していくと段々わかってきて、それが面白いなと思うんです。
「北前船」と小樽の関係~小樽にやってきた人はどんな人?
(編集部)小樽にやってきた人たちってどんな人たち?商人の力が大きい印象で、教科書には載らないけれど、とてもパワーがありますね。どんな人の印象がありますか?
(白鳥)やはり旧小樽倉庫という点で、加賀橋立の西谷さん、西出さんとか。現在も小樽倉庫㈱を経営している山本家とか。小豆将軍と呼ばれた高橋直治さんとかも。本当に色々な人の名前がでてきますね。現代の、東京に行ったら商売になるという雰囲気で、当時の小樽に多くの人が来ていたのでしょうね。すごい人だったはずなのに、お話があまり出てこない板谷宮吉さんも。番付もすごかったみたいだし。あの当時の人たちは、保険会社を作ったり、銀行を作ったり、航路を開いたり、インフラをかなり整えてくれた。商人というよりも実業家ですね。
(菅原)一方で、開拓で来る人たちにも注目したいです。幕末から明治以降に、道内各地に来た人たち。小樽が入口になって、そこからまた内陸へと移っていく人たちがいます。経済的に困窮してる人たちが、夢を求めてというか、食べていくために小樽にやってくる。小樽に住むか、もっと奥に移っていくかということで、小樽の有名な商人たちに隠れてる人たちが、膨大にいたこともおさえておく必要がありますよね。
「北前船」とアイヌ民族
(菅原)更に考えなきゃいけないこと。今日お話したかったのが、アイヌ民族との関係ですね。特に江戸期に関しては、 北海道の商品生産者は基本的にはアイヌの人たちですので、ニシンは和人も獲りますけども、ほとんどの産物はアイヌ民族が獲っている。その生産物によって和風の食文化が形成されていることは、いままで見過ごされてるなという印象がありますね。生産者という位置付けのアイヌの人たちは、北前船が発展していく大きな元になっているのです。
(白鳥)昆布も、アイヌの人たちが獲っていたんですか?
(菅原)そうです、昆布の大産地はほとんどそう。ニシンが獲れるところとあまりかぶらないので、和人がいないんです。ですから、大半が、アイヌの人が獲っていますね。
(白鳥)昆布も食べてたんですか?
(菅原)おそらく元々はそんなに食べていないのではないか。現在伝わっているアイヌ料理の中にもあるんですが、そんなに大々的には使ってないのでは?
(白鳥)どちらかというと、昆布の需要があるから、いわゆる販売する側が求めるので、アイヌの人が獲っていた?
(菅原)おっしゃる通りですね。昆布が商品ルートに乗るのは時代によって変わってきていて、古い時代は函館近辺だけだったのが、だんだん北海道の北東部に広がってくるんです。おそらく本州とか中国とかの需要に応じて、北海道内の昆布の産地も広がっていくってのは間違いないですね。その昆布を獲っている主体は、間違いなくアイヌの人たちです。
(白鳥)昆布じゃなくて、ニシンも、アイヌの人たちが獲っていたんですか?
(菅原)獲ってますし、食べてます。〆粕にしよう、つまり肥料にしようと言ったのが和人ですね。
(編集部)確かに、食べる分だけを獲るというアイヌの考え方に、大量に獲って〆粕にしようというのは合わない感じしますね。
(白鳥)以前、アイヌの人たちを描いた映画を見た時に、モッコを背負って、冬の極寒の中で蹴られながら運ばされている描写があって。これはある程度、事実なのだろう?と思ったときに、モッコは労働の厳しい背景を伝えているとも思いましたね。
(編集部)江戸後期にアイヌの人口はどのくらいですか?
(菅原)日本海側の石狩や余市は、幕末でも500~700人くらいです。小樽(現在の小樽市域で)に関しては、200~300人ぐらいですね。そこに数千人という和人が入ってくる。出稼ぎをして、ニシンの漁が終わったら地元に帰っていく、江戸時代後期の頃はほとんど帰っていたようですが、だんだん、定住していく。アイヌ民族はマイノリティになっていくので、それまでの生活を保ちにくいと言うこともあったでしょう。ニシン漁のせいで、日本海側のアイヌ文化は早い時期に消耗したと言われています。小樽に関しても、資料は少ないなっていう印象は拭えないですね。
「北前船」が運んだもの
(菅原)北海道の代表的な産物で言うと、太平洋側は昆布、日本海側はニシンなんです。取れる産物の分布が分かれますね。
(白鳥)北前船で北海道から運んだもの、蝦夷三品と言われますね。昆布、鮭、ニシン。アイヌ民族と鮭は結びつくけれど、北前船の時代には鮭はどんな風に扱われていたのでしょう?
(菅原)北前船の時代をどう分けるかっていう問題があって、江戸時代だと大型の和船は特別な契約を結んだ船以外、小樽には来てないんですよね。基本的に、松前、江差、函館の3つの港に来るわけですけど。
小樽について調べたところ、鮭ってそれほど獲れないので、小樽地域のアイヌ民族が獲っていたのはニシン、カレイ、ヒラメとかが多分主体なんですよね。これは、地域のアイヌ文化を考える上ではすごく重要な視点で、アイヌ語の鮭って、カムイチェプとかシペって言うんですが、シペって食べ物って意味なんですよ。で、それがもう鮭なんですね。でも、それっておそらく、鮭が取れる地域の話なので、太平洋側のイメージなのかなと。鮭は、小樽の近くだと石狩川ですね。あと余市川でも多くとれます。
(白鳥)小樽で鮭が獲れるイメージはないけれど、小樽からは北前船で出していたという記録があって、倉庫には取扱い品目としては載っていたそうですね。
(菅原)確かに、私、江戸時代の記録も見ましたが、勝納川に鮭がいることがわかります。本州から来た幕府の役人が、勝納川を通って、鮭がいっぱい上がってて感動したみたいなこと書いてましたね。これは19世紀のはじめです。でも多くはとれないようです。
(白鳥)昆布は食事の文化としてイメージが湧くし、ニシンは肥料がメインですよね。鮭はタンパク源として、つまり食料として各地に運ばれたんですか?
(菅原)おっしゃる通りですね。 本州の日本海にも流通してますし、あとは、19世紀の頭に、太平洋側が幕府の直轄領になる時代があるんですが、その頃に獲れた鮭を北海道の太平洋側から直接江戸まで船で運ぶ「鮭船」が出るんですよ。十勝や日高のあたりから江戸まで直行する。それが、江戸の鮭文化に与えた影響は大きいと言われています。
(白鳥)それは、「北前船」なんですか?
(菅原)(笑)そこが難しいですよね。各港の価格差で商売している船ではないですね、運んでいるだけなので。
(白鳥)そういえば高田屋嘉兵衛は根室でも事業をしていたけれど、これは北前船?
(菅原)高田屋嘉兵衛は、北前船主といわれますが、函館を起点にした流通ルートで北方領土まで展開したものです。
(白鳥)結局、北前船主って、時代とともに動いていたので、求められるところ、必要なところにあわせて動いていくから、線を引くことは難しいのですね。
(菅原)そういうことですね。当時も北前船という定義があって、船を動かしていたわけではありません。後世の我々がいろいろこねくりまわしているわけです(笑)
(編集部)小樽には何が運ばれてきたのか?今「つむぐおたる」には、米、塩、砂糖、酒、反物などあらゆる生活物資と、ザクッと書いていますが。
(白鳥)言葉もそうだし、歌とか、食文化もそうですよね。「おばんです」も京都からだろうし、飯寿司は、なれずしというジャンルで滋賀県の鮒ずし(滋賀県)も同じですね。あと、高島越後盆踊りも。庶民の文化と、能舞台のように豪商がもたらしたものとそれぞれありそうですね。
(編集部)住吉神社の鳥居の石も、北前船で運ばれてきたものでしたね。
(白鳥)小樽の建物に瓦屋根が残っているのも、船が空になるので積み込んで、それが商品としても使われたというところが、やっぱり商売上手だと思いますね(笑)
(菅原)鰊蕎麦は、京都が有名です。平成になってから、本格的に北海道に逆輸入された。
(編集部)そんなに最近なんですか?
(菅原)最近ですね。小樽に関していえば、十数年前に籔半の小川原さんたちが、産地で作ると言って「ニシン群来そば」として始めた新しい取組がありますね。そうやって、文化というのが変わっていくのが面白いですね。
(菅原)北前船は何を運んだのかと考えてみると、単純に人やものだけではなく、文化の移動という話になると思いますね。人が動くというのはどういうことなのか。その人が生きてきた経験が他の地域にいったときにどのように使われていくのか、息づいていくのかということなのでしょう。言葉や思想もそうですね。この前、講演で話しましたが、アイヌの人たちがつくったイナウ(祭具)が、北前船で本州に運ばれて、石川県の神社に奉納されるというのも、運ばれているのはものですが、実際は「思想」であり、象徴的な話ですね。
(菅原)ちょうど私が今、研究が進んでないのもあってすごく気にしてるのが、北海道から本州に運ばれるものは、イメージつくんですけど、本州から北海道に来るものですよね。それが、あまり研究されてないんです。本州から北海道に来るものとして、漠然と砂糖や米をあげてたんですけど、まだ具体的には研究がほとんど進んでなくて、それはやっぱり今後やる必要があると思っています。
日本史における「北前船」
(編集部)北前船は、日本にどんなことをもたらしてくれたのでしょうか?
(菅原)本州方面にとって北海道など北方地域が心理的にとても身近に感じることができるようになった(その逆もあり)っていうことですよね。北の文化が南に流れる、南の文化が北に流れるっていうことに尽きると思うんですけどね。
(編集部)船がなければ、これは難しかったこと?
(菅原)古い時代には、珍品として、昆布や鮭が流れていくのですが、これが身近になる。一般庶民の階層まで根付くということ。北の珍品が普段の日用品に変わっていくという役割を果たしたのは、北前船が大きいと思います。
(白鳥)世の中って、今もそうだけど、例えば政治が作る世界と、生きていく上での現実的な世界とあって、政治の世界ではないけれども、でも日本の近代化を進める上での大きな力を果たした存在だったんじゃないかなと思います。北前船、面白いですよね。
(編集部)菅原さんのアイヌの人たちのお話は、今まで聞いたことがなかったので、勉強になりました。
(菅原)江戸期のアイヌ民族は、和人による影響も大きかったですが、主体性が比較的保たれていました。明治以降、開拓の時代になって、マイノリティになってしまう。開拓の時代もアイヌの人たちの主体性が保たれていた時代も、実は北前船の存在が大きい。そこを理解して、北前船を捉える必要がありますね。
(白鳥)うちのビジネスでは、北前船は宝船みたいな、明るい感じでやってますけど、その背景にはアイヌの人たちの苦労があることは、根っこの部分では押さえておかなければいけないなと思いますね。
日本遺産をテーマにめぐろう
(菅原)白鳥さん、今かなりいろいろな寄港地に行かれてるから、見方が変わるんじゃないですか?
(白鳥)やっぱりね、実際に見ると全然違いますね。広島の造船所が残ってる姿とか見ると、その昔は北前船を作ってたんだろうなと想像ができたり。そういう巡り方も楽しいですよね。大きな動きで、日本を旅行するって時に、日本遺産はすごくいい題材だなと思うんです。小樽もそんな風に楽しんでほしいですね。
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Webマガジン小樽通2024冬号 フェリーで行く小樽~北前船スポット盛りだくさん旅
小樽通 編集部 永岡朋子
小樽運河と小樽港の間にある小さな事務所で、小樽観光を支えてくれる皆さんと日々奮闘中。Webマガジン小樽通では、記事制作も担当します。小樽の風景を撮るのが好きだったけれど、最近全く活動できていないので、なんとか活動再開したい!