おたる コラム

小樽のどこかにきっとある。ここは、文学の交差点。

2022年 02月 07日
フリーライター 盛合将矢

 石川啄木と野口雨情は僅かな期間ですが小樽で一緒に働き、伊藤整と小林多喜二は同じ学校に通う一学年差の先輩後輩という関係でした。小樽のどこかに、幻の〝文学の交差点〟があるかのように、やがて文豪と呼ばれる若き才能を二度も引き合わせています。

■石川啄木

 明治40年に小樽日報という新聞社が誕生しますが、立ち上げから参画したのが石川啄木と野口雨情でした。
 小樽に来た時の啄木の日記では、小樽の道路を“天下の珍 ”と表現しています。水はけの悪い粘土質の場所が多く、雨が続くと荷馬車の鉄輪が地面にめり込み、至る所に大きな轍が出来ていました。小樽は急激な発展を遂げる真っ最中だったので、荷物の往来も激しかったはずです。その悪路を天下の珍と言い表しますが、これには続きがあり“未来永劫小樽の道路が日本一であって貰いたい ”と、激励も合わせて綴っています。
 野口雨情が退職したきっかけで出世しますが、その後退職。同僚が残した記録では、啄木が札幌への取材が重なったとき、周りの社員から〝 より条件のいい仕事を求めての転職活動〟であると疑いをかけられて口論に発展。一方的な暴行を受け、それを知った上司が何も対応しなかった事に苛立ち、退職したと記されています。

■野口雨情

 童謡界の三大詩人と謳われる野口雨情は25歳の頃、札幌の北門新報から小樽日報に移ってきました。三面記事の主任という役職で迎えられますが、1か月も経たずに不運な形で退職してしまいます。その後すぐ子供に恵まれますが、1週間ほどで亡くなってしまいました。雨情の名作「シャボン玉」は、仕事も友人も娘も失った小樽の地で作られたとも言われています。
 そんな雨情ですが、小樽日報を辞めた4年後、東京の記者として再び小樽に足を踏み入れています。明治44年に東宮殿下(大正天皇)が北海道視察のために小樽に立ち寄った際、25社の新聞社が取材に入りました。本州から来る記者も多かった中、東京のグラフィック社から来たのが野口雨情でした。

■伊藤整

 詩集「雪明りの路」の自費出版をきっかけに、文学の道を歩んだ伊藤整。それ以降は「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳や、明治から大正時代の文壇史をまとめた「日本文壇史」などを執筆しました。
 日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端康成の信頼篤く、ノーベル文学賞の受賞翌日に放送されたNHKの特別番組で、三島由紀夫、川端康成、伊藤整の3人が対談する様子が放送されました。
 文学界で確固たる地位を確立する伊藤整。しかし、最初は小説を嫌っていました。
「図書館で芥川龍之介などの小説を借りると、私が借りる前に、あの顔の蒼白い彼に読まれていることを意識した。教師や他の生徒たちに読まれても平気だった。どうせ彼らには何も分る筈がない。しかし、あいつが読んだ後では、本の中身が抜き去られているような気がした」伊藤整にそこまで言わせた嫉妬の対象は、1学年上の小林多喜二でした。

■小林多喜二

 ブラック企業が社会問題になり、酷使される労働者や格差社会が浮き彫りになった平成20年、発行から約80年経っている小説のタイトル「蟹工船」が、その年の流行語大賞にランクインしました。
〝 ペンは剣よりも強し〟を体現し、虐げられている人を励まし、国家権力に言葉で立ち向かった小林多喜二は、昭和3年に起きた三・一五事件を題材に作品を発表。そこで書いた拷問の描写によって特高警察からマークされてしまいます。その後も、労働者が直面する厳しい現実を描き続けますが、昭和8年に特高警察に捕まり、その3時間後に築地警察署内で死亡しました。警視庁は心臓麻痺と発表しましたが、遺体には無数の拷問跡が残っており、解剖して検証しようとするも、どの病院もそれを拒んだそうです。

 言論の自由と戦ったようにも見える小林多喜二の生き様。伊藤整は「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳でわいせつ罪として訴えられ有罪判決が出てしまいますが、これも表現の自由と戦っているようにも見えてきます。
 文豪たちの生き様そのものが、純真と儚さが織りなす一つの作品のようにも感じませんか?
 その主たる舞台は小樽。この街から生まれた物語なのです。

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■番外編:永倉新八

 新選組二番隊組長として、池田屋事件などを戦い抜いた永倉新八。晩年は小樽で暮らし、亡くなった場所も小樽でした。永倉新八は明治4年に結婚して婿養子となり、杉村義衛の名で暮らしていました。それから小樽や月形など各地を転々としますが、明治32年からは再度、小樽へ転居します。
 そして、大正2年3月から「新撰組 永倉新八」という題で『小樽新聞』から連載を始め、同年6月まで続き、新撰組の軌跡を紙面に残しました。その文字の力によって〝 ならず者〟〝 人殺し集団〟などの悪いイメージを持たれていた新選組の名誉を回復するきっかけになったとも言われています。

 ちなみに、小林多喜二が4歳で小樽へ移住し、石川啄木と野口雨情が小樽日報で働いていた明治40年は永倉新八も小樽に住んでいました。永倉の身体には7箇所の大きな傷があり、お酒に酔うとふんどし一枚になって歴戦の傷を見せていた、というエピソードが残っています。新聞記者だった二人はもしかすると、そんな永倉の姿を小樽の酒場で見聞きしていたかもしれません。

■番外編:宮沢賢治

 「銀河鉄道の夜」で有名な宮沢賢治も小樽に来ています。大正13年5月、花巻農学校の生徒を引率した修学旅行の目的地は北海道。小樽にも立ち寄り、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)などを見学しました。このとき伊藤整は在学中だったので、宮沢賢治は伊藤整の姿を見ていたかもしれません。
 宮沢賢治が書いた報告書(復命書)には、小樽公園から見る光景を「公園は新装の白樺に飾られ北日本海の空青と海光とに対し小樽湾は一望の下に帰す」と、詩のような情景描写で書き残しました。

参考文献
「石川啄木」ドナルド・キーン (著)
「郷愁と童心の詩人 野口雨情伝」 野口 不二子 (著)
「伝記伊藤整―詩人の肖像」曽根 博義 (著)
「小林多喜二―21世紀にどう読むか」ノーマ・フィールド (著)
「新撰組顛末記」永倉 新八 (著)
「おたる文学散歩 第23話」小樽市HP