おたる コラム
■海を埋め立てて出来た運河
明治初期、港と鉄道を持っていた小樽は北海道発展の重要な拠点となりました。そんな小樽港を目指して多くの船が集まり、海の上は船の大渋滞。それを改善するために考えられたのが、艀の置き場所を増やすための運河式埋め立て計画でした。
もともと”埋立式”と”埠頭式”の二つの計画がありましたが、埋立式を支持したのは北防波堤建設のリーダーだった広井勇博士。出張中の海外からも手紙を書くほどに、小樽の港や労働者を心配していたようです。第一期運河式埋立工事は大正3年に着工、同12年に完了し小樽運河が誕生しました。
■港の発展
大正元年、艀の数は乗用・運送用合わせて267隻。小樽運河が完成してからは595隻にまで増えました。それに伴って、艀業者や船会社。倉庫業や荷物を運ぶ人、掃除する人など、多くの仕事が生み出されました。
■荷物を運ぶ艀の終焉
昭和初期、埠頭整備が進むと大型の船が艀を使わずとも直接荷下ろし出来るようになり、艀の需要は減り続け、昭和47年に稼働していた艀は23隻。その10年後には7隻にまで減りましたが、艀の上で荷物を保管する目的で使われていたため、その時点で荷物を運ぶ役割を持つ艀は消滅しました。
運河の歴史を伝えるシンボルとして新しい存在価値を見出された艀は、昭和64年に小樽市へ寄贈、改修された後に北運河で水に浮かびながら保存展示され、その姿を次の世代に見せ続けていました。しかし、老朽化や維持管理の問題から令和2年8月に残念ながら解体されました。
■小樽運河のタブー
「小樽運河を作ったのではなく、海を埋め立てた結果、運河が出来上がった」その事実と出会ったとき、とても興味が沸きました。しかし、「埋め立て」と聞くと運河保存運動を連想させ、小樽市民の自分にとっては”のどに刺さった魚の骨”のような感じがしていました。 「運河保存運動について取材をするのなら、慎重にね」もう10数年以上前ですが、筆者が大学を卒業して取材活動をしているとき、そんな事を言われた記憶があります。運河論争を語るのはこの街のタブー、という空気を少し感じていました。
明治初期、港と鉄道を持っていた小樽は北海道発展の重要な拠点となりました。そんな小樽港を目指して多くの船が集まり、海の上は船の大渋滞。それを改善するために考えられたのが、艀の置き場所を増やすための運河式埋め立て計画でした。
もともと”埋立式”と”埠頭式”の二つの計画がありましたが、埋立式を支持したのは北防波堤建設のリーダーだった広井勇博士。出張中の海外からも手紙を書くほどに、小樽の港や労働者を心配していたようです。第一期運河式埋立工事は大正3年に着工、同12年に完了し小樽運河が誕生しました。
■港の発展
大正元年、艀の数は乗用・運送用合わせて267隻。小樽運河が完成してからは595隻にまで増えました。それに伴って、艀業者や船会社。倉庫業や荷物を運ぶ人、掃除する人など、多くの仕事が生み出されました。
■荷物を運ぶ艀の終焉
昭和初期、埠頭整備が進むと大型の船が艀を使わずとも直接荷下ろし出来るようになり、艀の需要は減り続け、昭和47年に稼働していた艀は23隻。その10年後には7隻にまで減りましたが、艀の上で荷物を保管する目的で使われていたため、その時点で荷物を運ぶ役割を持つ艀は消滅しました。
運河の歴史を伝えるシンボルとして新しい存在価値を見出された艀は、昭和64年に小樽市へ寄贈、改修された後に北運河で水に浮かびながら保存展示され、その姿を次の世代に見せ続けていました。しかし、老朽化や維持管理の問題から令和2年8月に残念ながら解体されました。
■小樽運河のタブー
「小樽運河を作ったのではなく、海を埋め立てた結果、運河が出来上がった」その事実と出会ったとき、とても興味が沸きました。しかし、「埋め立て」と聞くと運河保存運動を連想させ、小樽市民の自分にとっては”のどに刺さった魚の骨”のような感じがしていました。 「運河保存運動について取材をするのなら、慎重にね」もう10数年以上前ですが、筆者が大学を卒業して取材活動をしているとき、そんな事を言われた記憶があります。運河論争を語るのはこの街のタブー、という空気を少し感じていました。
■観光都市・小樽
今では年間800万人が訪れる観光都市の中心的資源となった小樽運河。ここで記念撮影をするとき、又は故郷小樽を思い返すとき、海と歴史のロマンを重ねて会話が生まれたら素敵だと思います。それが、最後の艀が届けてくれた”物語という荷物”だったと思うのです。
今では年間800万人が訪れる観光都市の中心的資源となった小樽運河。ここで記念撮影をするとき、又は故郷小樽を思い返すとき、海と歴史のロマンを重ねて会話が生まれたら素敵だと思います。それが、最後の艀が届けてくれた”物語という荷物”だったと思うのです。
参考文献
小樽運河史 1979年
小樽運河史 1979年