おたる コラム

子供時代の小樽の思い出、エピソード

2017年 03月 28日
小樽観光協会会長 西條 文雪

少年時代の小樽

幼少時代の私は両親の暖かい愛情で育てられ、社会情勢や家庭の実情など知る由もなく、無頓着に成長してきた感があるがその頃の話を周りの人から聞くと、それが今の私の経営者としての礎になっており父の姿を人生の師として素直に思える自分がいるのである。

父は大正13年に喜茂別で生まれ、昭和20年に学徒動員令により、旭川師団に入隊したが、わずか1か月余りで終戦になり、その後小樽で木材屋に丁稚奉公したあと、昭和25年に独立した。
日本経済は戦後の混乱期にあり、インフレで物価がどんどん上がり、復興資材として木材も例外ではなく需要は旺盛で業界は好景気に沸き立っていたという。
良港を抱えた小樽は戦前から、北海道材、樺太材、沿海州材の一大集散地であり、活況を呈していたそんな環境の中、父は資金や地盤の無い中、木材業を始めたのである。

私の生まれた昭和27年は、父が腎臓の摘出手術をしたり、商売で初めて焦げ付きを出したり、生涯で最悪の時であったと思う。私の誕生が少しの癒しになったかどうかは定かではないが、小さい時はよく仕事の合間にいろんなところに連れて行ってもらった。父はアウトドアーが好きでたぶん小樽で最初に買ったであろうジープを乗りまわし川釣りや鉄砲撃ちに連れて行ってくれた。会社は今のユニクロのところにあり、臨港線が整備される前はそこが倉庫群であり、すぐ岸壁になっていて積んでいた丸太の上で遊ぶのが常であった。
冬になると横の赤坂でジャンプ台を作って遊んだり、道路でスキー靴に金具をはめて雪スケートなんぞを楽しんだものである。

小樽の良さ

小樽の良さは四季がはっきりしていることであろうか。
母方の実家が忍路だったので夏休みは毎日泳いでいたし、冬は天狗山でスキーができる。よく港にも足を運んだが、トランポーがあり、南洋材の丸太が海にプカプカ浮いていた。
当時の風景はのどかであった。人間ものどかであった。子供は子供らしく服も真っ黒にしながら夕方まで遊んでいた。
そんな情況が今でも頭にこびりついていて、一旦小樽を離れて戻ってきても小樽を愛する郷土愛には変わらない。忘れたくない思い出である。
いまは国際観光都市と言われ、年間800万人の観光客が小樽を訪れ、ブランド調査で全国でここ数年5本の指に入る人気都市になった。
先達のご苦労はあったとは思うが、誰が観光都市を想像したろうか。市民の方々の意識はまだ追いついていない。私も有難いとは思うが人気先行の感は否めないと思う。
子供はだまっていても育つと言うが、街づくりはそうではない。人口減の加速する中、小樽を愛する人たちのふんばりが必要だ。小樽の求めているのは、通り一遍の観光都市ではなく、来る側と迎える側が一つになって、こころからおもてなしする街の雰囲気を観光業に関係する方々だけでなく、市民全員が意識するべきであり、小樽を訪れる人たちが良い印象、良い思い出を持って帰ってもらう。そしてまたリピーターになってもらうためには、子供時代からの郷土愛が不可欠ではないだろうか。