おたる コラム

小樽らしい光景 時代とともに変容する都市:石川 直章

2017年 03月 28日
小樽市総合博物館館長 石川 直章

海の上の鯉料理

小樽を訪れる多くの観光客が抱いている「小樽らしい」光景とはどんなものでしょうか?
一昨年、市内の中学生に「小樽の観光名所はどこ?」というアンケートをした結果、小樽運河、天狗山、堺町通、おたる水族館、北一硝子などがあがりました。このほかスイーツやオルゴールンド「観光地小樽」のイメージ通りの結果が出ました。
さて、では写真1にあげた絵はがきをご覧ください。これは昭和6(1931)年に開催された小樽海港博覧会の記念絵はがきです。小樽港の風景と繋留された屋形船が写っていますが、その看板にご注目ください。「鯉料理」とあります。豊富で新鮮な海産物のイメージがある、現在の小樽から見ると、わざわざ海の上で鯉を食べる、しかもそれが堂々と記念絵はがきに掲載されていることはかなり奇異な感じがします。
しかし、大正から昭和初期、鯉料理が小樽名物であったのです。写真2にある「長橋川島」とは長橋で大規模な養鯉業を営んでいた「川島養鯉園」のことです。写真3には養鯉池の奥に長橋小学校の校舎がみえます。
川島養鯉園のほかにも、西川養鯉園、廣部養鯉園などの養鯉池が長橋、オタモイにかけて広がっていました。当然、その鯉の出荷ルートも確立しており、大正3(1914)年発行のガイドブックには鯉料理で有名な料理店の広告や評判が掲載されています。現在は、鯉料理を常にメニューに出している店は小樽にはほとんどないのですが、長橋からオタモイにかけての国道沿いなど、不自然な長方形の地割をみることができます。これが当時の養鯉池の痕跡なのです。

明治後期の小樽のイメージ

当然といえば当然なのですが、「小樽のイメージ」は歴史とともに変化していきます。現在の小樽が持っている「歴史とロマンの街」は市内各地に残されている歴史的建造物が醸し出している雰囲気が大きく働いています。
では、そのような歴史を感じさせる街並みはいつごろ完成したのか?というと、私は明治36(1903)年、37(1904)年の大火後の復興期に作られた、と考えています。
日本海側に位置する小樽は、春先に乾いた強風が吹きます。平坦地が少なく、爆発的な人口増加があった明治後期の小樽は、木造住宅が密集していました。そのため何回も大火をだしています。そのなかでも。明治36年の手宮大火では906戸、翌年の稲穂町大火では、実に2,481戸が被災します。図1に示すように、現在の中心市街地のほとんどが被災したことになります。この稲穂町大火は大災害といえるもので、写真4のように焼け野原にポツンポツンと石造倉庫がのこるだけになります。
ところが明治39年ころに撮影されたとされる市街地を撮影した写真5では一部を除き建物が建ち並ぶ活気のある街になっています。大火の被害をこの写真から見つけることが困難なほどです。この驚異的な復興を可能にした要因は、当時の小樽が持っていた経済力にほかなりません。
ちょうどこのころ石川啄木が小樽にやってきます。そして有名な「悲しきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の 声の荒さよ」の歌をのこしていきます。この歌の背景には、わずか10年で人口が3倍になる街、函館港をしのぎ北海道の玄関となった小樽港、そこで一攫千金を夢見る人々がはしりまわる、アクティブな町があります。
このころの小樽のイメージといえば、例えば米国人宣教師ピアソンからは「商業都市。学生や役人はきわめて少ない。不道徳がひどくはびこっているという」という感想を持つものも少なくありませんでした。

エネルギッシュな街

統計によれば明治38(1905)年に北海道に移住した人々の職業は農業が半数以上を占めていましたが、後志(入植者の実態から考えると「小樽」とほぼ同じ)では31%にすぎず、最も多い職業は「職業不詳」の35%になります(グラフ1、2)。まるで、ゴールドラッシュのような、夢と欲望を持った人たちが次々とやってくる、そんな街でもありました。
しかし、啄木はこのような小樽を「エネルギッシュな街」として高く評価していました。啄木は例の歌にからめて、小樽の街と人をこのように記しています。
「小樽人は歩行せず 、常に疾駆す。小樽の生活競争の劇甚なる事 、殆んど白兵戦に似たり。其生活の調子の男性的にして急調なる事、爽快 、勇壮 、歓呼の趣を通越して、却って悲壮の感を与へむとす。彼等は休息せず 、又歌はず 、又眺めず。唯疾駆し、唯蕎進す 。『疾駆する小樽人』の心臓は鉄にて作りたる者の如し。」(『胃弱通信』より)
まだ新興国家であった日本の近代化はこのような小樽の人々によって支えられていました。

「鉄の心臓」はどこに

大火から瞬時に復興した明治末、色内十字街を中心に25行の銀行が林立した大正末をへて「北日本随一」の経済都市に成長していく小樽ですが、重厚で歴史を感じさせる街は短期間にできたものではありません。
色内の銀行建築、東雲や富岡の豪邸、港周辺の倉庫街など、現在の小樽のイメージを構成している歴史的な遺産のかげには、それをつくっていた人々がいました。
「鉄の心臓」をもち「常に疾駆する」小樽人はいまどこにいるのでしょうか?おそらく多くの市民や小樽出身者の心のどこかに残っているのではないでしょうか?これからの小樽はそのような「鉄の心臓」のDNAをもつ人々によって新たなイメージを持っていくのでしょう。


参考文献
荻野いずみ 1995『荒野のバラ』
小樽市博物館 1985『稲垣益穂日誌』第8巻
北海道庁 1906 『北海道勧業統計一覧』(明治38年分)
山本侑奈 2014 「小樽の養鯉業」(『小樽学』第67号)
渡辺慎吾 2006『小樽歴史年表』